夜の木
何気ない日常。記憶に残らない日も少なくない。
一日中パソコンに向かっている日など、記憶の引き出しを通り抜け、横にあるゴミ箱に入ってしまい、ほんの数日前でさえ、何をしていたか、思い出せないこともある。
20年以上前に訪れたインドは、初めての事がほとんどで、楽しいこと、苦しいこと、辛いことなど深く記憶に残る旅だった。
そのインド旅行中のある日、路地奥の少し開けた場所にある細密画の工房を見学することができた。中に入ると、職人たちが細い筆を握り、細かく丁寧に描いていた。工房内はインドの喧騒とは対象的に静かで落ち着く場所だった。滞在時間も少なく、それほど強く記憶に残っていた場所では無かった。ところが、今月紹介する本「夜の木」の紙とインクの匂いは、私にその細密画工房のことを鮮明に思い出させた。
「音、匂い、手触り、味、風景」などの刺激をきっかけに忘れかけていた記憶を思い起こすことは過去に何度かあったが、それは実際に昔、聴いていた音楽を聴いた時や、子どもの頃のおもちゃを見たときであった。あるものから、別のものを連想した記憶は無い。
「夜の木」には多くの人が過去に経験した何かが含まれていて、「絵」、「手触り」、「匂い」などから、本を読んだ人の記憶を思い出させる力があるのかもしれない。
「夜の木」(バッジュ・シャーム 他著, 青木恵都 翻訳)
中央インドのゴンド民族出身の最高のアーティスト3人の手により、樹木をめぐる神話的な世界が展開。全てがハンドメイドで、手漉き紙に、シルクスクリーンで一枚ずつ刷られ、製本は手製本。インドの工房で、一冊ずつ丁寧に仕上げられた工芸品ともいうべき絵本。